上伊那地協

戦争と平和の資料館「ピースあいち」を訪れて

2016-08-01

上伊那地協は7月30日(土)、本年の平和学習として、名古屋市にある戦争と平和の資料館「ピースあいち」を参加者23名で見学しました。
初めに、陸軍の通信候補生に志願し、終戦まで暗号通信の傍受に携わった鈴木忠男さんのお話を聞きました。鈴木さんは90歳のご高齢ながら、今も戦争の語り手として活動を続けておられます。
終戦の年、テニアン島からは連日のように大型爆撃機B-29が日本を目指し飛び立っていました。それをいち早く察知し空襲警報に繋げるのが鈴木さんの重要な任務でしたが、B-29とは違う動きをしている航空機(V600と呼んでいた)の存在を通信局では把握していて、“V600はいずれ特別な任務で日本に来るだろう”と鈴木さんたちは危惧していました。ある時通信局では、テニアン島からV600が発信した「今飛び立つ」という暗号電報を傍受しました。それは特殊爆弾(原爆)を搭載して広島へと飛び立つという意味だったのです。情報は当然軍へと伝達されたのですが、軍はこの情報に対しての処置は行いませんでした。広島では原爆が投下される前に警報も鳴らなかったと言います。
鈴木さんは軍がなぜこの情報を握りつぶしたのか、なぜ広島なのか、なぜ長崎なのかずっと分からなかったと言います。でも今は、様々な情報に触れる中で「この場ではお話しできません。」とする重い結論をご自分の中に持っておられます。
「皆さんには安保関連法の事をもっと考えて欲しい。あれだけ多くの人が反対していたのに通ってしまった。これは問題ですよ。安倍さんは皆を守ると言っていますが、戦争が進んで来れば私たちは捨てられちゃうんですよ。日本は今、非常に危険な状況です。」と鈴木さんは静かに話されました。
お話を拝聴した後は、ガイドさんの説明を聞きながら、資料館内の展示物を見学しました。航空機産業の拠点だった名古屋は、早い時期からB-29による爆撃を受けました。軍需工場では、県の内外から学徒動員で駆り出された生徒たちが勤労奉仕をしていました。上伊那でも伊那高等女学校(現伊那弥生が丘高校)の第33回生が昭和19年に勤労動員で名古屋の航空機製造工場で働いていて、空襲により1名が命を落としています。